シーズン1 第10回 伊東玄朴
2016年11月16日放送
マスター:やぁ、富田さん、またいらっしゃいました・・・ハックション!
富田さん:こんばんは、マスター。え、風邪ですか? ちゃんと病院に行かないと。
マスター:いやぁ、あの白衣と注射が子供の頃から苦手でしてね。
富田さん:でも、佐賀のお医者さんは、かなり優秀ですよ。なんといっても、そのルーツとなる素晴らしい人物がいますからね。
マスター:お!今週も来ましたね。誰なんです?
富田さん:それが、伊東玄朴です
マスター:あぁ、佐賀を代表する名医ですよね?
富田さん:
そうです。10代鍋島直正公の主治医、さらには徳川将軍家のかかりつけ医にまで栄達して、あの篤姫にも薬を調合した当代きっての幕末日本を代表する医者なんですね。神埼の農民から身を起こして、オランダ商館の医者シーボルトからオランダ語と西洋医学を学んだんです。
身分制の江戸時代ですけれども、農民であっても特別な功績のある人物などに限って侍に取り立てる「一代侍」という制度があったんですね。一代だから必ずしも世襲とは限らないんですが、農民出身の玄朴も藩主・直正公のお目にとまって一代侍になったんです。29歳の時に江戸で開業し、やがて診療所を併設した塾「象先堂」を開設します。玄朴の腕が評判を呼んで患者は行列、家の前には茶屋や飲食店までできるほどの人気ぶりだったといわれているんですよね。
マスター:すごいですね~。でも、「農家の出」ということは、決してサラブレッドではなかった…ということですよね。
富田さん:
それが良かったかもしれないんです。例えばこういうエピソードがあります。
玄朴が開いた塾「象先堂」の「象先」という名前をつけてくれたのは、(宮城県)仙台藩の大槻磐渓(おおつきばんけい)という親友なんですね。
この方、有名な解剖書の「解体新書」を翻訳した杉田玄白と前野良沢からそれぞれ一文字ずつ名前をもらった大槻玄沢(おおつきげんたく)という儒学者の息子にあたる人なんです。
この息子にあたる磐渓さん、若い頃お金に困った時、今の約100万円に相当する10両を貸して欲しいとお願いしたら、伊東玄朴は、利子はいらぬ、借用書もいらぬといって気前よく助けてくれたというんですよね。
玄朴には敵もいたけれど仲間をすごく大切にする人だったんですよね。それからもう一つ、天然痘予防を目的とする種痘を推進するためのセンターを玄朴たちが江戸に私費で設立した時も、医者のネットワークを活用して医者83名のグループで建てたんです。それを持ち前の人間力と人脈で、私立から公立に切り替えることに成功して、やがてこれが医学教育機関にまで発展する基礎を築いたんですね。
これが今の東大医学部の源流の一つにもなっているんですね。
マスター:なるほど。その頃、佐賀の状況はどうだったんです?
富田さん:
今、県内の病院のなかで、最も歴史のある病院といえば、佐賀県医療センター好生館。その名付け親は10代佐賀藩主・鍋島直正公なんですね。
玄朴が育てた弟子たちが、ここでは先生となって佐賀藩の医療教育を推進。
東洋医学が主流の江戸時代において全国でも例を見ない西洋の医学を必須とした医学校だったんですね。
当時、特に恐れられた病が致死率20~50%にも上るといわれた天然痘なんです。直正公は、わざと天然痘に軽くかからせて免疫をつくらせる種痘を、 好生館の医者たちが中心となって藩内に広めていくようにと、指示を出したんですね。しかも無料で。 地域の医療に対して行政が責任を持つという社会福祉的な近代医療の先駆けのような事業を、すでに幕末佐賀藩はやっていたんですね。 人を大切にするのが、やはりこの佐賀なんですね。
マスター:
なるほど…。ところで、以前から気になっていたんですが、富田さんはいつも偉人たちに会ったみたいに話して下さいますが、何でそんなに詳しいんですか?
富田さん:
僕は佐賀に来てまだ8年くらいなんですけども、実は数年前に、いい本に出会ったんですよ。
それが「佐賀偉人伝」。幕末・明治に活躍した県内出身者15人をピックアップして、1人ずつ1冊にした伝記集なんですね。分厚すぎず、薄すぎず、1冊100ページ前後の本なんです。
僕は大体この本で知ったことを、マスターに聞いてほしくて、いつも来ていたんですよ。
だって佐賀のことを知ると、佐賀が好きになりますし、人に聞いてほしいじゃないですか。
この「佐賀偉人伝」、最前線の研究者が書いた充実の内容なのに、1冊たったの1000円位なんですね。
いつも美味しいコーヒーをご馳走になっているから、これまでのお礼に、マスターにプレゼントしますね。
マスター:おお、そうですか。
富田さん:じゃあ、今日もご馳走様でした。
マスター:ありがとうございました~。立派なご本を頂いたけど、今、必要なのは、ゴホンより、咳止めかなぁ~。