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維新の「志」コンテンツコレクション

シーズン3 特別番組 明治維新150年 そのとき佐賀は世界を見ていた ~直正交友録スペシャル~

2018年1月3日放送

 

富田さん:あけましておめでとうございます。

マスター:いやぁ~、おめでとうございます~、富田さん。

富田さん:今年はいよいよですね~。

マスター:いよいよって?何がですか?

富田さん:
今年、2018年は明治維新から150年を迎えるんです。これまでマスターにお話してきたとおり、鍋島直正公をはじめ、佐賀では幕末維新期に活躍した人物がたくさんいますよね。

マスター:えぇ、えぇ。

富田さん:
今年の「明治維新150年」を機に、改めてそうした佐賀の偉人や偉業を振り返り、未来にその志を伝えていこうと、「肥前さが幕末維新博覧会」が、いよいよ3月から佐賀市を中心に開催されるんですよ。

マスター:そうなんですね。それは行かないと!

富田さん:
マスター、僕が去年お話したことは、どうせお忘れでしょうから、きょうは改めて直正公の生涯を振り返りながら、直正公を取り巻くさまざまな人物を紹介しますね。

マスター:お手数をおかけします。

富田さん:
10代佐賀藩主・鍋島直正公は、文化11年、西暦1814年、現在の日比谷公園がある、江戸の佐賀藩邸で生まれました。幼い直正公の生活面を指導する躾役(しつけやく)は、何人かの女性が担当したんですが、その代表格が、磯濱(いそはま)さんでした。

マスター:確か、すっごく厳しかったとか。

富田さん:
えぇ。例えば、直正公がお庭に出ようとして、自分で足袋を脱ごうとしていると、磯濱さんが一喝。「自らの手で足袋を脱ぐなど、大名に有るまじき行為!」つまり、大名たるもの、お付の者に脱がせなければならないというのです。

マスター:
今の一般的な躾なら逆のような気がしますが・・・。幼い頃から将来、藩主となるためのエリート教育を受けていたんですね。

富田さん:
そうなんですね。そしてその頃から直正公が尊敬していたのが、“佐賀藩祖”と呼ばれる鍋島直茂(なべしまなおしげ)公。幼少の頃に直正公は、藩祖直茂公の教訓書を、毎朝、人に読ませて聴いていたそうです。

マスター:ほぅ~。

富田さん:
そして、直正公が幼少期から生涯を共にした側近・古川松根(ふるかわまつね)の存在も忘れてはいけません。江戸時代の大名家には、藩主のお世継ぎに、お遊び相手を付けるという慣わしがありました。この役には、世継ぎと年齢の近い藩士の息子を選抜して、一緒に生活を送ることで、社会性を育みながらお世継ぎは成長することができたんです。古川松根はマルチな芸術家肌の人物で、和歌も詠めるし、筆を握らせれば絵もうまい。大人になった直正公は松根に頼んで、あの磯濱さんの肖像画を描かせて、プレゼントしたこともありました。

マスター:常に側にいて、確か、松根は直正公が亡くなって3日後に殉死したんですよね。

富田さん:そうなんです。心の底から直正公に仕えていたんですね。

マスター:直正公は、本当に素晴らしい人材に囲まれていたんですね。確か、家庭教師役の・・・。

富田さん:古賀穀堂先生ですね。

マスター:あぁ~、そうそう、そうです。

富田さん:
17歳で藩主になった直正公は、改革に燃え、佐賀城に藩の重臣たちを招集してこう言いました。「佐賀藩の財政再建のためならば、私自身どんな倹約であっても受け入れる覚悟ができています。あとは、あなた方重臣の誰もが気持ちを入れ替え、一致団結し、命をなげうってしっかりと職責を果たしてほしいものです」

マスター:
何とストレートな…。だから、なかなか家臣たちに受け入れられず、両者の間に温度差が生まれた…ということでしたよね。

富田さん:
えぇ。そんな時に、直正公にアドバイスしたのが穀堂先生でした。「佐賀藩には弊害となっている風潮として、妬むこと、決断しないこと、そして、負け惜しみを言う・・・という3つの病があります。これを改善しない限り、佐賀で大事業を成し遂げることはできないでしょう」と。しばらくして直正公は再び重臣たちを集め、こう語りかけます。「佐賀藩の低迷は、まだ若い私の不徳が原因です。ただ、あなたたち重臣の誰もが普段から綿密に話合いをして、私などの智恵の及ばないところを助けて欲しいのです」

マスター:う~ん、これをきっかけに、直正公と家臣たちの間の溝も、少しずつ埋まっていったんですね。

The SAGA Continues…/KEN THE 390, KOHEI JAPAN, DEJI, K DUB SHINE

マスター:この曲、先日、姪っ子から教えてもらったんですがね。

富田さん:
佐賀ゆかりのラッパーや、その筋ではかなり有名な実力ミュージシャンが作った「The SAGA Continues…」ですよね。この曲を聴いているだけでもかなり幕末維新期の佐賀について知ることができますよね。

マスター:えぇ。聞き流すだけで、どんどん歴史が入って来るんですよ!

富田さん:
そ、そうですか。では、そんな幕末維新期に活躍した人物の一人10代佐賀藩主・鍋島直正公のお話を続けましょうか。

マスター:お願いいたします。

富田さん:
藩主となった直正公の周りには、優秀な側近がたくさんいました。直正公より1歳年上のお兄さん・鍋島茂真(なべしましげまさ)もその一人。茂真は側室のお子さまだったため、養子に出て、須古(すこ)鍋島家の当主となりました。直正公が藩主に就任して6年目、佐賀城二の丸が火事で焼失します。その直後、直正公は行政トップにあたる請役当役(うけやくとうやく)という役職に兄・茂真を抜擢し、「藩の学校である弘道館をますます発展させ、良き人材を輩出して欲しい」と頼みました。

マスター:
火災というトラブルをきっかけに、行政トップを交代、藩校・弘道館も充実させるとは、まさに、ピンチをチャンスに変えたんですね。

富田さん:
はい。また、直正公の義理のお兄さんで、武雄鍋島家10代当主・鍋島茂義(なべしましげよし)も直正公の大きな力になっています。突然ですがマスター、ここで問題です。ジャジャン!

マスター:どうしたんですか、富田さん…。

富田さん:直正公が成し遂げた事業で主なものを二つ挙げてください。

マスター:え!?あぁ…確か「日本で初めて鉄製大砲を鋳造したこと!?」、「実用蒸気船をつくったこと!?」ですかね?

富田さん:
マスター、どうしたんですか!?よく覚えていましたね。大正解です!実は、こうした一大プロジェクトも、茂義が大きな役割を果たしているんです。茂義の指揮によって、武雄領では、いち早く西洋砲術の研究が進められていました。中国でアヘン戦争が起きたのと同じ1840年、現在の神埼市にあった台場で、直正公が砲術演習を初めて視察します。当日の陣頭指揮に立つ予定だった茂義は、体調不良のため参加できませんでしたが、この日の演習は、直正公の西洋式大砲への理解を高める上で大きな出来事となりました。さらには、ペリー来航の翌年、直正公は藩内での蒸気船の製造を命じますが、その主任に任命されたのも茂義でした。

マスター:
う~ん。茂義なくしては成し得なかったんですね。大砲や蒸気船といえば、全国的には、今の鹿児島、つまり薩摩も有名ですよね?

富田さん:えぇ、よくご存じですね。

マスター:実は、昔から鈴木亮平君のファンなんですよ。

富田さん:
なるほど~。実は、薩摩藩主の島津斉彬公は、直正公のいとこなんですよ。直正公と斉彬公は共に海の防衛に敏感で、西洋式の大砲や軍艦の必要性を感じていました。佐賀藩が精煉方で理化学分野の科学実験や研究を進めたのに対して、薩摩藩では「集成館」という場所に反射炉を建造して、大砲や小銃を造ったり、火薬やガラスの製造をしていました。また佐賀藩で、日本初の実用蒸気船「凌風丸」を建造したのに対し、薩摩藩では洋式軍艦「昇平丸」を造っているんです。

マスター:いい意味で、競い合っていたんですね。

富田さん:えぇ。また、国防という面では、直正公は、あの井伊直弼とも意見が合いました。

マスター:あぁ、「桜田門外の変」の人ですよね?

富田さん:
えぇ、そうです。大老・井伊直弼は、開国問題に直面した際、「時代の流れに応じて、外国との貿易も必要」と考えていました。直正公は手紙で井伊直弼にこう伝えています。「国防が整った上での開国はよいとして、あなたが仰るように、備え不十分での開国は問題です。このことで苦心しているのは私と同じですね」と。この頃の直正公は、長崎警備にさらに力を注ぐため、西洋式の海軍の整備に取り組んでいました。そこで直正公は、当時幕府領だった、熊本の天草を佐賀藩に預けて欲しいと井伊直弼に願い出ています。

マスター:でも結局、この後、桜田門外の変が起きて、井伊直弼は暗殺されたんですよね?

富田さん:
そうなんです。当然、この話は流れてしまい、佐賀藩海軍の拠点として、現在は世界遺産となっている「三重津海軍所」が発展していくんです。

マスター:そういうところで歴史は繋がっていくんですね。

プリズムの海/松谷さやか

富田さん:
佐賀県庁の展望ホールで開かれている、夜景プロジェクションマッピング「星空のすいぞくかん」のテーマソングですよね。

マスター:
実は、この曲「プリズムの海」を歌っている、佐賀出身の松谷さやかちゃんは一時期、そこのピアノで弾き語りをしてもらっていたんですよ。

富田さん:ほんとですか!?

マスター:今は東京で頑張っていて、時折、手紙も届きますよ。

富田さん:
へぇ。意外だなぁ。意外と言えば、直正公は藩主としての一面だけでなく優しい父親、夫としての側面もありました。

マスター:確か、愛娘の貢姫さんとは、しょっちゅう文通していたとか?

富田さん:
そうです。独身の頃はもちろん、貢姫さんが結婚した後も、だいたい月1のペースで文通を続けていたんです。その手紙およそ200通が現在も大切に保管されていて、直正公のプライベートな部分を今に伝えています。

マスター:例えばどんなエピソードがありましたっけ?

富田さん:
はい、直正公の跡継・直大公の心身を鍛えるために、1日40km以上もの「遠足」に連れ出したことがありました。この時には、さすがに直正公も堪(こた)えたようで、江戸にいる長女・貢姫さんに、「ことのほか、山、険しく、大くたびれ致し申し候」と伝えています。

マスター:
青年期の息子さんの前では厳格なお父上も、愛娘には、「男はつらいよ」と本音を漏らしていたんですね。そういえば、奥さまも大事にされていたようですね。

富田さん:
はい。直正公が12歳のときに結婚した盛姫さまは、若くして病のために亡くなり、筆姫さまという方と再婚します。直正公は佐賀に馴染めなかった江戸育ちの筆姫さまを気遣い、鮎捕りやお花見に連れ出したりしました。

マスター:本当にお優しい方だったんですね。

富田さん:
えぇ。そして、直正公は晩年、佐賀から東京に移って、そのまま明治4年に58年の生涯を東京で閉じました。佐賀だけでなく、当時の日本の多くの人に影響を与え、またたくさんの人から影響を受けた鍋島直正公の生涯を、駆け足で振り返ってみましたが、どうでしたか、マスター。

マスター:
いやぁ~、本当に興味深いですねぇ。もっと直正公や幕末維新期の佐賀のことについて知りたくなりましたよ。

富田さん:
そんなマスターにぴったりなのが、今年、2018年の明治維新150年を機に、3月から始まる「肥前さが幕末維新博覧会」です。博覧会では、迫力の映像と、分かりやすいストーリーで、幕末維新期の佐賀を振り返ることができる「幕末維新記念館」のほか、佐賀の偉人たちを数多く輩出した藩校「弘道館」の学びを体感できる「リアル弘道館」、佐賀発祥の武士の心得「葉隠」から、自分に合った言葉を探す体験などができる「葉隠みらい館」などがあるそうですよ。

マスター:
それは楽しみですね~。彼女と一緒に行って、富田さんから教えてもらったいろんな知識を披露しちゃおうかな…。

富田さん:
そういえば、これまで僕がマスターにお話してきたことは「肥前さが幕末維新博覧会」のホームページに、テキストと音声でまとめて掲載されていますから、デートの前に復習してみてはどうですか?結構、量がありますから、ポイントをメモしておくといいかもですね。じゃあ、ご馳走様でした!

マスター:
ありがとうございました~。それでは、早速「肥前さが幕末維新博覧会」のホームページを見て、「直正・虎の巻」を作っちゃいましょうかねぇ。あ、でもデートの時には、絶っ対見つからないようにしないと・・・。私の”威信”に関わりますからね。