シーズン3 第11回 直正公の兄貴分「鍋島茂義(なべしま・しげよし)」
2017年9月20日放送
富田さん:こんばんは~、マスター。
マスター:あぁ、富田さん。いらっしゃい。
富田さん:そういえば、先日から、お兄さんと“いかしゅうまい”でバトルがあっていたようですけど、その後、どうですか?
マスター:
いやぁ、ハハハ。先週富田さんに頂いた松浦漬けも、結局兄貴が一人で食べてしまって。実の兄ながら呆れ果てていたところなんですよ。
富田さん:
でも、そんなお兄さんでも、良いところがあるかもしれませんよ。そうだ!きょうはマスターに、直正公が「兄貴分」として頼りにしていた人を紹介しましょう。
マスター:ほぅ~。ぜひお願いします!
富田さん:
直正公のご兄弟の多くが藩内の重臣の家と養子縁組を結んだことは前にお話しましたけど、直正公のお姉さんの一人・寵姫(ちょうひめ)という方は、重臣の武雄鍋島家に嫁ぎます。そのご主人が今回の主人公、鍋島茂義です。茂義は、戦国時代の龍造寺隆信公の息子を初代とする名家の10代目ご当主。直正公の義理のお兄さんということになりますよね。年齢も茂義の方が14歳年上で、名実共に直正公の兄貴分的な存在でした。直正公の藩主6年目、佐賀城二の丸が焼失したという話、覚えています?
マスター:えぇ、えぇ。
富田さん:
その時、再建事業のチーフにあたる「御城御普請方頭人(おしろごふしんかたとうにん)」という大事な役職に任命されたのが茂義でした。このとき二の丸を再建すべきか、それとも江戸時代当初のように本丸を復興すべきか、藩内で意見が分かれます。(直正公の)お父上・斉直公は「二の丸再建推進派」でしたが、直正公は本丸の再建を主張します。その理由について直正公は、チーフの茂義にこう伝えます。「そもそも佐賀城というのは、藩祖・直茂様と初代藩主・勝茂様がお心を尽くしてお建てになったものである。そこで再建工事は本丸を中心に行い、やがては以前のように天守閣などまで建てたいと思う」つまり、以前お話ししたように、藩祖直茂公の考え方を幼少期に徹底的に学んだ直正公だからこそ、本来の姿、つまり本丸の再建を望んだんですね。
マスター:なるほど。他にも何かエピソードがあるんですか?
富田さん:
佐賀藩が西洋式の大砲を鋳造して、蒸気船も建造したことは有名ですよね。この一大プロジェクトにも、茂義が大きな役割を果たしているんです。というのは、反射炉が建造されるより20年近くも前、茂義は家来の平山醇左衛門(ひらやまじゅんざえもん)という人物を、西洋砲術のプロ・高島秋帆(しゅうはん)のもとに入門させています。今も武雄市歴史資料館には、高島秋帆が鋳造して武雄に持参したと考えられる大砲が残されています。これは日本人が鋳造した最初の西洋式大砲と言われていまして、茂義の指揮によって武雄領ではいち早く、西洋砲術の研究が進められていました。
マスター:そうだったんですね。
富田さん:
そして中国でアヘン戦争が起きた1840年、研究の成果となる砲術演習を直正公が初めて視察します。当日の陣頭指揮に立つ予定だった茂義は体調不良のため参加できませんでしたが、この日の演習は直正公の西洋式大砲への理解を高める上で大きな出来事となりました。
マスター:ほぅ~。
富田さん:
さらにはペリー来航の翌年、直正公は藩内での蒸気船製造を命じますが、その主任に任命されたのも茂義でした。つまり長年の蘭学研究の業績をもとに、西洋式大砲と蒸気船製造という佐賀藩における軍備増強の二本柱において大きな役割を担ったんです。
マスター:なるほど。直正公と、義理のお兄さんの茂義。プライベートではどうだったんですか?
富田さん:
えぇ。実は、直正公は温泉が大好き。湯治のため、武雄温泉にもしばしば滞在しています。武雄では、茂義の自宅に遊びに行くこともあって、茂義が自宅で栽培していたミカンをお土産にもらって、それを江戸にいる愛娘の貢姫(みつひめ)さんに贈ったりもしているんですよ。
マスター:公私に渡って、仲が良かったんですねぇ。
富田さん:
えぇ。だからマスターも、お兄さんと喧嘩なんかしちゃ駄目ですよ。はい、これ、仲直りに使って下さい。じゃあ、ご馳走様でした!
マスター:
ありがとうございました。おっ!これは武雄温泉の入浴券じゃないですか!では、今までのことは水に流して、兄弟水入らず、久々に裸の付き合いでもしましょうかね。