シーズン3 第16回 幕末の大物大名「德川斉昭(とくがわ・なりあき)」
2017年10月25日放送
富田さん:こんばんは~、マスター。
マスター:やぁ、富田さん。いらっしゃい。
富田さん:マスター、先週話していた競馬のレースはどうでしたか?
マスター:いやぁ「深読みができない」っていうか、なかなかどうして、難しいものですね。
富田さん:
じゃあ、参考になるかどうかは分かりませんが、幕末の日本で、名君として最も名の知れた殿様の一人、水戸藩主の徳川斉昭公を紹介しましょう。
マスター:お願いします。
富田さん:
御三家の一つ、茨城県の水戸藩は太平洋に面していますから、沿岸警備にも熱心で、大砲の鋳造や大型船の建造の必要性を感じていた点で、直正公と似ています。また蝦夷地開拓の必要性を考えていた点も直正公との共通点です。しかも、斉昭公が創設した水戸藩校の名前は「弘道館」。佐賀藩校と同じ名前なんですね。
マスター:なるほど。直正公との接点は?
富田さん:
はい。斉昭公は直正公より14歳年上の先輩格。直正公は藩主9年目・25歳の時に、斉昭公から水戸藩邸に招待されます。2人の話題は、武士の嗜みとして必要な弓や馬の話に及びました。この時、斉昭公は直正公にこうふっかけます。「我が家に名馬がいますから、あなたの得意な馬の取扱いぶりを皆に見せてやってくださいよ」と。これに対し、直正公はこう答えます。「恥ずかしながら私、太平の世に生まれた大名育ちゆえ、名馬を手なずけることには不慣れでございます」
この一部始終を見ていた水戸藩士の一人は、直正公にいたく感心します。「鍋島殿というお方は、まったく飾りっ気のない天真爛漫な性格でおられる。普通の人間であれば、メンツがあるため、出来ぬものも、さも出来るかのように言い紛らわすところだが、事実のままを素直に言う度量は、まことに目を見張るものがある」と。
マスター:実直な直正公ならではのエピソードですね。
富田さん:
えぇ。また、大名同士が面会する場合、漢詩を詠み合って交換することがありました。この時もそうだったんですが、宴の席上で直正公が斉昭公に送った詩の一節には、「遥かに北海の雲を呼ぶことを嘆いています」という意味のフレーズがあります。北海、つまり蝦夷地の雲を遠く眺めているだけなのは嘆かわしいというのですから、直正公は25歳にして蝦夷地開拓への関心を抱いていたものと思われます。実際、この2年後に、側近の永山十兵衛が東北調査に赴いています。永山は調査旅行中、斉昭公のお膝元・水戸にもちゃんと立ち寄っています。斉昭公は直正公に、馬を手なずけるようにとか突然厳しい注文をつけたように、他人の腹の中を探るような一面があったと言われていますから、宴の席上でも、建設的な議論というよりはお互いの手のうちの探り合いだったのかもしれませんね。
ただ斉昭公にとって、自分より14歳も年下の九州の一外様大名が「蝦夷地に注目しています」なんてことをさらっと言うわけですから、「この男、ただ者ではない」と感じたかもしれませんね。
マスター:そうですね~。そのほかにも交流はあったんですか?
富田さん:
はい。斉昭公に37名いた子供のうち、多くの男子は養子に出ています。五男が鳥取藩主・池田家、七男が一橋徳川家、八男が川越藩主・松平家という有力大名家を継ぐことになったんです。五男が継いだ池田家は直正公のお母さまの実家。一橋家を継いだ七男というのが、のちに最後の将軍となる徳川慶喜。そして、川越藩主になった八男というのが、直正公の愛娘・貢姫さんと結婚した松平直侯公なんです。徳川一門と鍋島家は、こういう深いご縁でつながっていたんですね。まぁ、いずれにしても、競馬の予想も奇をてらうことなく、素直に考えてみたらどうですか。じゃ、ご馳走様でした。
マスター:
ありがとうございました。直正公と、水戸のお殿様か・・・。明日のレースも、粘り強~く、予想を練ってみましょうかね。