シーズン3 第2回 直正公の理想のリーダー「鍋島直茂(なべしま・なおしげ)」
2017年7月19日放送
富田さん:こんばんは~。マスター。
マスター:やぁ、富田さん!いらっしゃい!
富田さん:おや、きょうは読書中だったんですか?
マスター:
えぇ。この前、実家の納屋を整理していましたら、古い家系図が出てきましてね。その系図をさかのぼってみると、どうやら我が家のご先祖は、ここだけの話、地球の外からやって来たみたいなんですよ。ほら、ここに頭がツルンとした、タコみたいな絵が描かれているでしょう?
富田さん:
(心の声)あ、頭がツルンとね・・・。あぁ、それはそうとマスター、先週から僕が、鍋島直正公にゆかりの人物を紹介していますが、どうですか? 興味を持ってもらえましたか?
マスター:えぇ!そりゃあもちろん!それでいくと、きょうは「ご先祖様」について聴いてみたいですね。
富田さん:じゃあ今回は、直正公が「理想のリーダー」としていた「鍋島直茂公」を紹介しましょう。
マスター:ぜひお願いします。
富田さん:
この直茂公は、佐賀藩の基礎を築いたことから「藩祖」と呼ばれています。佐賀藩初代藩主・勝茂公のお父上にあたる方で、直正公から見ると、曾々々々々おじいさんにあたる方なんですね。年数でいうと200年以上前のご先祖ですけれども、単に血縁というだけではなく、直茂公と直正公は深い間柄でつながっていたんです。
マスター:と、言いますと?
富田さん:
直正公は17歳で藩主になる前、6歳の頃から儒学や武道などの修業に励みます。また、幼少の頃には、藩祖直茂公の教訓書を、毎朝、人に読ませて聴いていたそうで、ご先祖の学習の中でも、とりわけ藩祖直茂公の考え方を重視しながら育っていったんですね。
実は今年2017年は、直茂公が亡くなってからちょうど400年の節目にあたるんです。今から150年前は、直茂公没後250年にあたる年。幕末の慶応3(1867)年がその年です。
このとき直正公は、城下の町人たちが、直茂公を祀る松原神社(日峯社)の参道で、大規模なお祭りを行うことを特別に許可します。
マスター:町の人たちは喜んだでしょうね。
富田さん:
そうなんです。普段は贅沢をせず、芸能なども制限されている町人たちは、この時ばかりはと歓喜して、準備を進めていたんです。ところがそんな時、お目付の役人がやって来まして「三味線などの囃子は許可するが、踊りなどは認めない!違反者は容赦なくお縄にする!」と言って、舞台装置などを厳しくチェックし始めたんです。
マスター:せっかくの盛り上がりが台無しですね~。
富田さん:
えぇ、そうなんですよ。そこで、このことを聞いた直正公は、役人を呼び出して、こう言います。
「よいか。領民たちは、普段は質素に、緊張感を持って生活している。その緊張を、お祭りを通じて一旦は弛めてあげて、そして祭りが終わったら再び緊張感のある暮らしに戻す、そういうメリハリが大切なんだ。お囃子は許可するのに踊りは認めない、などという中途半端なやり方があるものか!どんな演芸を披露するかは、彼らの自由にさせなさい!」と、激怒したんですね。
マスター:さすが直正公!領民の立場に立った、正に「神対応」ですね!
富田さん:
そうですね。直正公が幼少期に毎朝耳にしていた藩祖直茂公の言葉の中に「子孫の祈祷は、先祖の祭(祀)りなり」という一節があります。子孫というのはご先祖のお祀りを熱心にしなければならないという意味です。
また、別の一節には「人間は、下程骨折り候事、よく知るべし」という言葉があります。普段は汗をかいて骨を折って暮らしている領民の様子を知っている直正公だからこそ、盛大で自由な祭りを許可したんですね。
ちなみにこのとき、直正公自身もお子様を連れて祭りの観覧に出掛けて楽しんでいます。
マスター:きっと、賑やかなイベントだったんでしょうね~。
富田さん:
はい。実は、このときの盛大な熱気に包まれたお祭りの実際の様子を写した古い写真が、このほど鍋島家の資料の中から新しく発見されまして、私が勤務している佐賀市の徴古館で(2017年)7月29日まで初公開しているんですよね。
マスター:おぉ~、初公開!これは、家系図なんか見ている場合じゃありませんね!徴古館に行かなきゃ!
富田さん:そ、そうですね。ありがとうございます。そうだ、マスター、その家系図、ちょっと調べてみたいので貸して貰ってもいいですか。
マスター:あぁ、もちろんいいですよ。
富田さん:ありがとうございます。じゃあマスター、お預かりしていきます。ご馳走様でした!
マスター:は~い、ありがとうございました。
富田さん:ん!?この本、家系図じゃないな。「世界の未確認生物図鑑」って書いてある。UMA(言うま)でもなく、またまたマスターの勘違いだな、これ・・・。