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維新の「志」コンテンツコレクション

シーズン3 第22回 北海道開拓の父「島義勇(しま・よしたけ)」

2017年12月6日放送

 

富田さん:こんばんは~、マスター。

マスター:やぁ、富田さん。いらっしゃい。

富田さん:おや!?ピッケルに、リュックまでしょって、冬山登山ですか?

マスター:いや~、そうなんですよ~。そこに山がある限り・・・男のロマンですねぇ。

富田さん:
う~ん、それじゃあきょうは、学力も優秀で、体の丈夫さと健脚ぶりもよく知られていた直正公の側近・島義勇を紹介しましょう。

マスター:お願いいたします。

富田さん:
札幌では「北海道開拓の父」として、今も称えられている島義勇。直正公のお側に仕えていた33歳の時、江戸に遊学。この際、水戸藩士・藤田東湖(とうこ)と親交を持ち、蝦夷地開拓の必要性についても議論したようです。また、ちょうどこの頃、水戸徳川家から養子に出て、川越藩主となっていた松平直侯(なおよし)公と、直正公の長女・貢姫さんの結婚話が浮上します。その調整役を担ったのも、水戸側は藤田東湖、佐賀側は島と言われているんですね。

マスター:へぇ~、かなりの活躍ですね。

富田さん:えぇ。さて先々週、井伊直弼大老の同意を得て、直正公が、天草を佐賀藩の軍港として活用しようとした話をしましたよね。

マスター:えぇ、えぇ。

富田さん:
直正公は天草の漁業の利益で大型船を建造して、それを運用して長崎警備を充実させ、さらに蝦夷地開拓や海外進出まで考えていました。蝦夷地に着目したのは、海産物などから得られる利潤という経済面と、ロシアの脅威という観点から、軍事面でも重要な土地だったからなんです。

マスター:まさに「先見の明」ですね。

富田さん:
はい。それまで佐賀藩では、古賀穀堂や永山十兵衛によって東北を調査していましたが、ようやく蝦夷地調査に踏み出した直正公が、その指示を下したのが、蝦夷地の意義をきちんと理解し、健脚でも知られた島義勇でした。函館に上陸した島は、小樽・石狩・釧路・襟裳・千歳・室蘭など沿岸部をぐるっと回って、地理や漁業・林業・鉱物資源の調査や、アイヌの風習などをつぶさに見聞します。この間、わずか4ヵ月ほどでしたが、樺太にも足を延ばしているんですね。

マスター:へぇ~、すごいやる気と体力ですね。

富田さん:
はい。やがて明治2年、直正公は「開拓使」という役所の初代長官、島は判官という職員に任命されます。現地・北海道に赴いた島の仕事は、開拓の本拠地を建設することでした。それが現在の札幌です。ところが現地では、江戸から1,500俵のお米を積んだ船が沈没するなど食糧不足に悩まされ、お米の少ない北海道で、どうにか備蓄米を現地調達するなど苦労を重ねます。そうした厳しい状況の中、島は、札幌の建設を進めますが、わずか4ヵ月で解任されて東京に召喚されることになります。島の北海道滞在は短いものではありましたが、直正公へ宛てて、自らの想いを詠んだ漢詩をしたためます。そこには「今から建設するこの町は、いつの日か、世界一の大都市になるだろう」という島の気概が表されていました。

マスター:その想い、おおむね達成されていますよね。

富田さん:
えぇ。札幌の人口は、昭和15年に函館を抜いて北海道一位となり、全体の1/3以上の人口を擁する大都市として今も発展を続けています。

マスター:島は誇るべき“佐賀んもん”ですねぇ。

富田さん:
えぇ。この島の功績を称え、後世に伝えようと銅像建設のための寄附金が現在募集されています。銅像は来年の秋、佐賀城公園西側の一角に完成予定だそうです。もし、寄付に興味がおありでしたら、肥前さが幕末維新博覧会のHPを見てみるか、県内の文化施設などにチラシが置いてあるそうですよ。あ、もうこんな時間だ。マスター、冬山は初心者には難しいですから、行くんだったら気を付けて下さいね。じゃ、ご馳走様!

マスター:
ありがとうございました。う~ん、今の島義勇の話を聴いて、冒険心に火が付きましたよ~。まずは、近い所から・・・。うん!「白山(しらやま)」から登ってみよう!