シーズン3 第3回 生涯をともにした側近「古川松根(ふるかわ・まつね)」
2017年7月26日放送
富田さん:こんばんは~、マスター。うわっ!何ですか、その格好!
マスター:あ、富田さん(シュノーケルをくわえてる)、いらっしゃい。
富田さん:名前入りの海パンに、シュノーケル、大きな浮き輪に、足ヒレまでつけて・・・。
マスター:
いや、幼なじみと、店がハネたら泳ぎに行こうと約束をしていまして。
あ、でも富田さんのお話を聴いてからですよ。きょうはどなたなんです?
富田さん:きょうは直正公と生涯を共にした側近「古川松根」を紹介しましょう。
マスター:「生涯を共に…」というと、二人の出逢いは古いんですか?
富田さん:
はい。江戸時代の大名家には、藩主のお世継ぎに「御遊び相手役」を付けるという慣わしがありました。この役には、お世継ぎと年齢の近い藩士の息子を選抜して、一緒に生活を送ることで、社会性を育みながらお世継ぎは成長することができたんです。直正公にとって、大切なお遊び相手が、今回の主人公、1歳年上の古川松根なんですね。
マスター:大役に抜てきされるということは、松根少年はかなり優秀だったんじゃないですか?
富田さん:
そうですね。穏やかな性格だったといわれる松根は、直正公の育ての親、あの磯濱さんから怒られることはあまりなかったそうです。ただ、のちの回顧談の中で、磯濱さんから時にはお灸を据えられたこともあったと語っていますから、直正公と共に厳しい養育を受けながら成長したようなんですね。
マスター:子供とはいえ、大変なお役目ですね。
富田さん:
えぇ。直正公が藩主に就任した後も、松根は側近として仕え続けます。実は、彼はマルチな芸術肌の人物で、和歌も詠めるし筆を握らせれば絵もうまい。デザイン感覚も抜群で、現在の伊万里市大川内山にあった鍋島藩窯のやきもののデザインまで手掛けたといわれるほどなんですね。
また、刀や骨董品に関する知識も豊富で鑑識眼も鋭かった松根は、直正公が所持していた美術品や調度品の管理も任せられていたんですね。
さらに松根は、武家社会の伝統やマナーも熟知していましたから、TPOに応じて直正公の衣裳をコーディネートしたり、腰にさす刀をチョイスしたり、日常では、直正公の髪を結ったりヒゲを剃ったりと、直正公にとって生活面で何より頼れる存在でした。
マスター:なくてはならない存在ですね。
富田さん:
そんなある日、直正公は松根の腕を見込んで、ある1人の女性の肖像画を描かせます。
その絵の脇には、直正公が直筆で「その厚い恩恵に、いまだ報いることができていません」という意味の漢文を記して、完成した肖像画を本人にプレゼントしました。
マスター:ん?
富田さん:その女性というのが…。
マスター:ひょっとして…。
富田さん:そうです。幼少期の直正公や松根を育ててくれた磯濱さんです。
マスター:なるほど~。
富田さん:
このとき磯濱さん71歳。40年近く経ってもなお、その御恩に感謝していた2人からの古稀のお祝いだったのかもしれませんね。
マスター:いい話ですね~。
富田さん:
やがて明治4年、直正公は58歳で病気のため亡くなります。1月18日のことでした。その葬儀の準備をある程度整えた松根は、準備係の関係者3人を自宅に招き、おもむろにビールで乾杯して慌ただしい準備の労をねぎらいます。そしてその翌日、家族が外出しているとき、自宅で自害して直正公に殉死したんですね。
マスター:え~!
富田さん:
1月21日、つまり直正公の死去から3日後のことでした。自宅での乾杯に加わっていた一人、久米邦武は松根の死をのちに知って、あの日のビールが別れの盃だったことを悟ったと語っています。
マスター:う~ん。
富田さん:
現在、直正公の眠る佐賀市大和町の春日御墓所には、直正公のお墓の後ろに小さく松根のお墓があるんですね。そして直正公を祀る佐嘉神社には、隣接して松根を御祭神とする松根社があります。幼少期から晩年に至るまで、文字どおり直正公と生涯を共にした松根は、今なお直正公と共に佐賀の町を見守りつづけているんですね。
あれ!? マスター、海パンは着替えたんですか?
マスター:
えぇ。いまのお話を聴いて、感動しました。海水浴はやめて、幼なじみと大川内山で窯元めぐりをしようと思います。
富田さん:
それはいいですね。松根が手掛けた鍋島藩窯のデザインの系譜に触れられるかもしれませんね。いいコーヒーカップが見つかったら、ぜひお店でも使って下さいよ。じゃあ、ご馳走様でした!
マスター:
ありがとうございました!う~ん。一生付き合える友人と、やきものかぁ。私では、ちょっと器が小さいかもしれませんねぇ。