シーズン3 第6回 直正公の師匠「古賀穀堂(こが・こくどう)」後編
2017年8月16日放送
富田さん:こんばんは~、マスター。
マスター:
あ~、富田さん!お待ちしていましたよ。先週は、お話が途中になっていましたからね。17歳で藩主になった直正公が、なかなか家臣たちに受け入れられず、両者の間に温度差が生まれた・・・ということでしたよね。で、どうなったんですか?
富田さん:
はい、はい。こうした様子を冷静な眼で見ていたのが、直正公の家庭教師役だった古賀穀堂先生です。先生は直正公に、こうアドバイスします。「今の佐賀藩の問題点は、殿の高い志を重臣たちが受け入れていないことだと思われます。実は、佐賀藩には弊害となっている風潮として、妬むこと、決断しないこと、そして、負け惜しみを言う。この3つの病があります。これを改善しない限り、佐賀で大事業を成し遂げることはできないでしょう。そして厄介なことに、この病は、とりわけ重臣たちの間に蔓延(まんえん)しているのです」
マスター:当時の佐賀藩って、そんなに複雑だったんですか?
富田さん:
ええ。その頃の藩内には、諫早家、多久家、武雄鍋島家、白石町(しろいしちょう)の須古鍋島家、みやき町の白石(しらいし)鍋島家、鳥栖の村田鍋島家など、各地に領地を保有して、その地名が家の名前となっている重臣たちが数多くいたんです。
マスター:そりゃあ複雑ですねぇ。
富田さん:
だから、いくらお殿様がこうしたいと言っても、それぞれの地域特有の歴史や慣習、考え方がありますから、すぐに共感を得られるというものではなかったんですね。
マスター:う~ん。
富田さん:
しかも直正公は真っ直ぐな性格の持ち主ですし、その若さもあって、物の言い方もストレートですから、時には角が立ってしまうこともあったようなんですね。
マスター:江戸屋敷生まれの坊ちゃんが何を・・・というやっかみもあったのかも知れませんね~。
富田さん:
そうかもしれませんね~。そういった空気を感じ始めた直正公。しばらくして再び重臣たちを集めて、こう語りかけます。「佐賀藩の低迷は、まだ若い私の不徳が原因です。ただ、あなた方重臣の誰もが普段から綿密に話合いをして、私などの智恵の及ばないところを助けていただきたいのです。もちろん私の考えに疑問を抱いたり、他に思うことがあれば、包み隠すことなく発言して欲しいと思っています」
つまり、直正公は、遠慮し合うよそよそしい空気に対して、重臣同士での話し合いや、藩主と重臣の間の率直な意見交換を求めたんです。これを知った穀堂先生は、おそらく大いに安堵されたことと思いますね。
マスター:教えた甲斐があったということですね。
富田さん:
そんな穀堂先生も、病には勝てませんでした。直正公が藩主になって7年目。60歳を迎えた穀堂先生の病状が次第に悪くなったんです。
マスター:直正公もさぞ心配だったでしょうね。
富田さん:
そうなんですよ。自宅療養をしていた穀堂先生を、ある時直正公はお見舞いに行きたいと思い立ちます。でも穀堂という、重臣ではない一藩士の自宅訪問をお殿様が事前に言い出せば、必ずや反対する役人が出ると予想した直正公。ある日、郊外に「狩り」に出かけた帰り道に、こう切り出します。「確か、穀堂の家はこの辺りではなかったか?せっかくだから、ちょっとだけ立ち寄っていこうか」
マスター:うん。
富田さん:
役人に断る間(ま)を与えさせない状況でお見舞いを実現させたんですね。この時穀堂は、もはや布団から起き上がることもできないほど衰弱していましたが、直正公はお見舞いのしるしとして、忍ばせていたお茶を寝床の穀堂先生に手渡して、いたわりの言葉をかけたんです。
マスター:へぇ~。
富田さん:
この異例の突撃訪問が、直正公と恩師との最後の対面になったんですね。生前、穀堂先生は直正公に対して、学問を通じた人材育成の必要性を説いていました。その先生が亡くなってから4年後、直正公は藩校・弘道館の移転拡張を実現させることができたんですね。
マスター:穀堂先生も、きっと草葉の陰で喜んでいたでしょうね。
富田さん:えぇ。あ、いけない!もうこんな時間だ。歴史セミナーに行かないと!
マスター:先週は英会話、今週は歴史セミナーと、いろいろ習ってらっしゃるんですね?
富田さん:いえいえ、きょうの歴史セミナーは講師として行くんですよ。
マスター:あぁ~、そうなんですね!場所はどこなんですか?
富田さん:えぇ。そこを走っている”国道”のすぐ側です。じゃあマスター、ご馳走様でした!