シーズン3 第8回 穀堂が後継者として期待「永山十兵衛(ながやま・じゅうべえ)」後編
2017年8月30日放送
富田さん:こんばんは~。マスター。
マスター:ああ~、富田さん。お待ちしていましたよ!先週は、またまたいいところで帰っちゃうんだから。
富田さん:
いや~すみませんでした。直正公の師匠でもあり家庭教師でもあった古賀穀堂先生が後継者として期待していた「永山十兵衛」の話でしたよね。
マスター:はい。永山は、直正公の右腕の一人となって、藩政改革を推進することになる・・・という所まででした。
富田さん:
えぇ、えぇ。直正公が早くから蝦夷地(今の北海道)の開拓に関心を持っていて、調査探検のために島義勇を派遣したのは有名ですよね。
マスター:えぇ。
富田さん:
その島が蝦夷地に初めて行った時より20年近くも前、東北地方の事情を調査するために直正公が派遣したのが、永山でした。永山は東北諸藩を巡って、各地の政治や風習を視察。詳しい報告書を直正公に提出します。永山を東北に送り出す直前、送別のため、直正公が直筆で書き送った漢詩には「日本列島の隅っこのことは、まだよく分かっていない」という意味の言葉を詠み込んでいます。ほとんど未知の領域に派遣するほど、永山に対する直正公の信頼は厚かったんですね。しかし、そんな永山十兵衛は1846年、44歳の道半ばで病気のためこの世を去ります。
マスター:早すぎる別れですねぇ。
富田さん:
えぇ。佐賀市大和町の実相院(じっそういん)に今も残されている永山の墓石には、その生涯の業績がびっしりと刻み込まれています。その文章を考えた人物が、儒学者の佐藤一斎(さとういっさい)です。
マスター:佐藤一斎?
富田さん:
うん、彼は現在に例えると東京大学に相当する、江戸幕府直営の学校・昌平坂学問所の儒官を務めるほど、当代きっての儒学者だった人物です。
マスター:今で言うところの東大の幹部を務めるほどの実力者だったすごい方、ということですね。
富田さん:
そうなんです。そして、その文章をもとに書に表したのが、直正公側近のマルチ文化人・古川松根でした。生前、永山はあまり社交的ではなかったようなんですが、広く浅いお付き合いよりも、学問を通じて特定の人物と深い関係を築いていて、その業界では江戸でもよく知られた人物だったんですね。永山が亡くなった翌月、直正公は自らお墓参りに赴きます。藩主が一家臣のお墓参りをするのは極めて異例のことです。この時の気持ちを直正公は次のように漢詩に残しています。
「あなたほど、魚と水のような親密な間柄を築くことのできた人が、果たして他にいたでしょうか。馬に乗り、この山深いお墓に来ましたが、私は悲しみにたえません」
その学力をもって弘道館で指導的な立場も務め、その精神力と行動力をもって東北の視察まで任された永山十兵衛。後継者としてあの古賀穀堂先生も期待をかけ、直正公も絶大な信頼をおいた永山の早すぎる死に、直正公は一時期憔悴しきっていたそうです。
マスター:そうでしょうね。
富田さん:
さて、ここでトリビアです。永山の義理の甥っ子に、山口亮一(りょういち)という人物がいました。この方は、佐賀美術協会などを通じて近代佐賀の美術界をリードした人物です。佐賀美術協会が開催している「美協展」という公募展は、歴史が古く、今年で記念すべき100回目を迎えました。
マスター:へぇ~。
富田さん:
これにちなんで、現在、県立美術館では肥前さが幕末維新博プレ企画展「山口亮一と佐賀美術協会の100年」が開かれているんですよ。(※H29年9月3日で終了)あ、チラシを置いて行きますね。では、マスターご馳走様でした。
マスター:
ありがとうございました。「山口亮一と佐賀美術協会の100年」展。9月3日まで。今度の日曜までじゃないですか!早く行かなきゃ!あ、でもその前に、夏休みの自由研究を終わらせないと・・・。