Shinpei Etō Shinpei Etō

江藤新平

1834 - 1874

民の立場に立ち、
民のために奮闘した江藤新平。
彼の功績は今も生き続けている。

写真:佐賀県立佐賀城本丸歴史館所蔵

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江藤新平について

「維新の十傑」や「佐賀の七賢人」と称される江藤新平(1834~1874)は、初代司法卿として国民の権利を守るための近代的な裁判制度を導入したことが有名ですが、江藤の功績はそれだけではありません。三権分立に基づく国家制度の設計や、民法・国法といった法典の編纂、国民皆教育の導入など、現在にまでつながる日本の骨格を築きました。

江藤は、明治政府の中枢である参議にまで昇り詰めますが、「明治六年政変」で政府を去ることになり、翌年の佐賀戦争で刑死という非業の最期を遂げました。その後、明治22(1889)年の大赦により罪が赦されると、帝国議会での表彰建議を経て、大正5(1916)年に正四位が追贈されて名誉回復がなされました。

佐賀戦争について

江藤新平の主な功績

大木喬任とともに、江戸を「東京」として新たな都を置くことをいち早く提言。
国家財政の方針を整え、公平な課税の仕組みや予算の公表などの方針を立案(『政府急務十五条』)。今では予算の公開は常識となっているが、そのきっかけを作ったのは江藤である。
国法(憲法)制定の必要性を提言し、さらに民法制定を「天下第一の急務」と力説し、編纂を実施。
立法と行政、そして司法がそれぞれ独立することによって権力の濫用を防ぎ、国民の権利と自由を保障する「三権分立」の仕組みを提言。
四民平等という一貫した信条を持ち続け、教育や職業選択、裁判など様々な分野で身分差別の解消を実践。
それまでの封建制から脱却し、中央集権とともに地方自治の観念を提示するなど先進的な国家整備構想を提言。
江藤の提言によって立法を司る左院(議員立法機関)が設立され、立法権の独立を実現。
司法省の初代長官となり『司法職務定制』を定めた。これによりこれまで府県の権限でバラバラに行われてきた裁判事務を司法省に統一するとともに、全国への裁判所設置や判事・検事・代言人(弁護士)制度の導入など、「人民の権利」の保護のための司法権を確立。
国家が全国民の教育に積極的に責任を負う方針を明示。江藤の親友であり、後任者として文部行政を引き継いだ大木喬任の下で制度化。

参考資料

江藤新平×歴史人
本当にすごいんです、江藤新平
法務史料展示室・メッセージギャラリー
近代司法の夜明け(YouTube動画/チャンネル名「MOJchannel」)

江藤新平復権プロジェクト

明治維新という時代の大転換期に、類まれなる鳥瞰力と実行力で三権分立、国民皆教育、 四民平等、民主的で公平な司法制度など、それまでの江戸時代の常識では全くないものを導入し、 今の我々につながる「日本の骨格を創った男」江藤新平。

同時代に生きた数々の偉人の中でも、他に比肩するものがないほどの偉業を成しながら、それぞれの大義と大義がぶつかり合った「佐賀戦争」の責任を負わされ処刑されるという衝撃的な最期が影響しているのか、戦争から150年が経過した現代においても、江藤の比類なき功績に値する正当な評価はなされていません。

このため、佐賀県では、令和6(2024)年の江藤新平没後150年を契機に、 佐賀戦争とともに消されてしまった江藤の功績に光を当てて「真の復権」を図る「江藤新平復権プロジェクト」を展開しています。

現在進めている取り組み

これまでの取り組み

江藤新平の歩み

年号 / 西暦 年齢 起こったこと
天保5 / 1834 1 現在の佐賀市八戸で生まれる
嘉永2 / 1849 16 藩校・弘道館に入校
安政3 / 1856 23 『図海策』を執筆
  • 学生時代に世界情勢を踏まえた先進的な開国策を提言
文久2 / 1862 29 国の行く末を憂いて佐賀を脱藩し、京都へ
藩主 直正公の上洛を受けて佐賀へ帰藩。永蟄居(無期限謹慎処分)に
  • 脱藩は本来死罪のところ、直正公が「いつか役に立つ人物だから」と死罪を認めず、無期限謹慎に軽減
明治元/1868 35 東京奠都(てんと)建白
  • 戊辰戦争後の東日本の情勢安定のため、江戸を「東の京(首都)」にすることを提言
明治3 / 1870 37

憲法・民法制定検討会議開催

国政の基本方針(三権分立)策定

  • 国を治めるためには「立法」「行政」「司法」の3つが独立していることが重要
明治4 / 1871 38

司法省を設置

文部大輔 就任

  • 在任期間わずか17日で、国民皆教育などの方向性を確定。実現は親友の大木喬任に任せて次のプロジェクトへ

左院副議長 就任

  • 後の議会制につながる「立法機関」のNo.2に。人民の平等や職業選択の自由などを決定
明治5 / 1872 39 司法卿就任「司法職務定制」制定
(府県の権限だった裁判事務の司法省への統一 / 判事、検事、代言人(弁護士)制度の導入 / 裁判所の設置)
  • 就任3か月で全108条の大作を制定!日本史上初めて司法における「人民の権利」と「法の下の平等」が制度化
明治6 / 1873 40 司法卿辞表提出
  • 大蔵省の予算削減に抗議した全長3mの辞表。「国民の安心のための司法の安定」を熱く語ったもの。辞表は却下され、予算確保

参議に就任

  • 予算をめぐる混乱収拾のため、政府の最高幹部(7人)に就任。ちなみに、7人中3人は佐賀出身(江藤新平・大木喬任・大隈重信)

参議を辞任(明治六年政変)

  • いわゆる「征韓論」(対朝鮮外交官として、西郷を派遣するか否か)に係る対立から、西郷隆盛・江藤新平・板垣退助・後藤象二郎・副島種臣が辞任
明治7 / 1874 41 佐賀に帰郷
  • 佐賀の士族を説得し、騒動を収めるために帰郷するも手が付けられない状況に。すぐに長崎に移動し、しばらく静観の構え

佐賀県権令 岩村高俊着任

  • 佐賀県を治めるために赴任してくる中央官僚が、軍隊を連れてくるという暴挙。最初から実力行使する気満々…

佐賀戦争勃発

  • 武力行使を前提に動いていた政府に対しやむなく、「ふるさと佐賀」の防衛のために立ち上がることに

高知県甲浦で捕縛
佐賀にて刑死

  • 裁判手続の適正さに多くの疑問があったと言われている。人民のために公平で民主的な司法制度を整えたはずの江藤が前近代的な裁きを受けるという不条理さ
明治44 / 1911 内乱罪の消滅
  • 佐賀戦争から37年後の明治44(1911)年の帝国議会において、明治22(1889)年の大日本帝国憲法発布に伴う大赦の効果が死者にも及ぶことが確認され、江藤の「内乱罪」の罪状が遡って消滅
大正5 / 1916 正四位追贈
  • 内乱罪の消滅からさらに27年後、生前の従四位が追贈されようやく名誉回復。それでも「士族反乱の首謀者」といった不公平な評価は残ったまま