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今から150年以上前、
江戸時代から明治時代に
変わろうとしていたころ。
日本でトップクラスの科学技術を
持っていた佐賀藩は、
他の藩と力を合わせて
新しい時代のトビラをひらいた。
未来の佐賀を生きる、君たちへ。
昔を生きた人々の「志 こころざし」を
どうか忘れないでほしい。
今から150年以上前、
江戸時代から明治時代に
変わろうとしていたころ。
日本でトップクラスの
科学技術を持っていた
佐賀藩は、
他の藩と力を合わせて
新しい時代の
トビラをひらいた。
未来の佐賀を生きる、君たちへ。
昔を生きた人々の「志 こころざし」
をどうか忘れないでほしい。
幕末の佐賀藩
佐賀藩10代藩主 鍋島直正(なべしま なおまさ)は佐賀藩の仕組みを作り直し、幕末維新期に活躍する多くの人々を育てました。
ここでは鍋島直正の取り組みを中心に、幕末の佐賀藩の取り組みを紹介します。
鍋島直正による改革
江戸時代の終わりごろ江戸の鍋島藩邸に生まれた直正は、元服(げんぷく)の翌年に17歳で佐賀藩の10代藩主になりました。
当時の佐賀藩は、長崎港の警備のための出費や、江戸に行くための費用などでお金がほとんどなくなり、財政を立て直すことが急ぎの課題でした。
佐賀藩の学者、古賀穀堂(こが こくどう)の指導のもとで本格的な藩政改革が始まりました。古賀穀堂は直正の教育係をつとめ、直正の考え方に大きな影響を与えた人物です。
改革では、まず人事を見直し、改革派の有能な側近をそろえました。次に、財政・行政・教育などを順番に改善して、藩のしくみを立て直しました。
具体的には、江戸藩邸の経費を大きく減らし、参勤交代の人数や荷物を縮小して経費を削減しました。その一方で、白蝋(はくろう)や焼き物、お茶、石炭などの産業を大切にして、ものを売って収入を増やそうとしました。
さらに藩の役人の1/3にあたる、およそ420人を辞めさせ、身分に関わりなく有能な人材を採用していきました。
佐賀藩の近代化
アヘン戦争でイギリスが清国(今の中国)を破ると、長崎警備を任されていた佐賀藩では、欧米の力に対する危機感が高まりました。直正は長崎港で外国の軍船を何度も見て、西洋の軍事技術を取り入れる必要を感じ、幕府に砲台を増やすよう進言しました。しかし、当時はお金が足りず、幕府は聞き入れませんでした。そこで佐賀藩は自分たちで海を守る力を強めることにしたのです。
当時、海外では大量の鉄製の大砲が使われていました。大砲を作るためには鉄を溶かすための反射炉という大きな炉が必要ですが、日本ではまだ実用化されていませんでした。そこで佐賀藩は、洋式砲を研究していた火術方(かじゅつかた)から大砲づくりの組織を独立させ、築地(ついじ
※今の佐賀市立日新小学校付近)に反射炉を建てました。
はじめは鉄がうまく溶けず失敗が続きましたが、学者の新しい知識と刀工や鋳物師の伝統技術を合わせて改良した結果、良い鉄ができるようになりました。その後、幕府やほかの藩から鋳鉄大砲の注文を受け、でき上がった大砲は長崎や江戸(品川)の砲台に設置されました。
こうして直正が進めた改革は、科学技術を大きく進歩させ、多くの優れた人材を生み出しました。これらは後の明治維新でも重要な役割を果たしました。
佐賀藩の科学・医療技術
幕末の佐賀藩の科学・医療技術を紹介します。カードをタップして、詳しい説明を見てみよう!
精煉方 せいれんかた
精煉方
せいれんかた
佐賀藩が作った理化学研究所です。水蒸気で船や汽車を動かす蒸気機関や、電信(でんしん)などの当時最新の科学技術の研究が行われました。
佐野常民(さのつねたみ)をリーダーに、石黒寛次(いしぐろかんじ)、中村奇輔(なかむらきすけ)、田中久重(たなかひさしげ)など優秀な技術者が活動していました。
三重津海軍所 みえつかいぐんしょ
三重津海軍所
みえつかいぐんしょ
船の修理や海軍の訓練をする場所で、2015(平成27)年に世界遺産に登録されました。日本初の実用蒸気船「凌風丸(りょうふうまる)」もここで作られています。
西洋の方式の船を整備・修理するためのドライドックがあり、これは今残っているなかで日本で最も古いものです。
跡地には「佐野常民と三重津海軍所跡の歴史館」が建っています。
反射炉 はんしゃろ
反射炉
はんしゃろ
オランダの技術書をもとに建設された、大量の鉄を効率よく溶かすための施設です。当時の日本では、たたら製鉄などで鉄を溶かしていましたが、大砲の製造ではよりたくさんの鉄を一度に溶かす必要がありました。
築地反射炉(ついじはんしゃろ)と多布施反射炉(たふせはんしゃろ)で合計8つの炉が作られ、長崎や江戸を警備するための鉄製大砲が作られました。
蒸気車雛形 じょうきしゃひながた
蒸気車雛形
じょうきしゃひながた
精煉方で蒸気機関研究のために作られた蒸気車の模型です。
実際の蒸気車より小型に作られましたが、蒸気機関の仕組みや構造を実験できるように実際に走る模型になっています。
現在は佐賀市内の徴古館で保管されています。
凌風丸 りょうふうまる
凌風丸
りょうふうまる
三重津海軍所で作られた、日本初の実用蒸気船(実験用ではなく、実際に使える蒸気船)です。
長さは約18メートルで、動力源は石炭でした。外側の大きな水車(外輪 がいりん)で航海します。
現代では多くの船がスクリュープロペラで進むため、凌風丸のような外輪船はほとんど見られません。
種痘 しゅとう
種痘
しゅとう
当時流行していた天然痘(てんねんとう)という病気を防ぐための予防接種のことです。ヨーロッパでは天然痘のワクチンが18世紀に完成しており、これが世界で初めてのワクチンと言われています。
佐賀藩では鍋島直正がオランダから輸入したものを息子(直大 なおひろ)に接種させ、その後佐賀藩に住む人々に接種を行っていきました。
佐賀が生んだ偉人たち
幕末から明治にかけて活躍した偉人や現代の日本に大きな影響を与えた偉人を紹介します!
幕末維新期
佐賀藩10代藩主
佐賀藩10代藩主。1830(天保元)年に、17歳(満15歳)の若さで佐賀藩のリーダーになり、様々な改革を行いました。教育係だった古賀穀堂(こが・こくどう)の意見を取り入れ、佐賀藩の学校「弘道館」で大胆な教育改革を推進しました。また、重臣との協力に力を注ぎ、義理の兄で武雄領主の鍋島茂義(なべしま・しげよし)などを藩の重要な役職に採用し、西洋の科学技術を積極的に導入しました。直正の大改革により、佐賀藩と佐賀藩出身者は、幕末から明治にかけて大きな活躍をしました。
藩主直正の教育担当
現在の佐賀市与賀町生まれ。1806(文化3)年に佐賀藩の学校「弘道館」の教授となり、ヨーロッパの学門や文化・技術を学ぶ「蘭学」を勉強することが大切だと考え、早くからその必要性を訴えました。
また、のちに佐賀藩主となる鍋島直正の教育係として、幼少期の直正を指導しました。1831(天保2)年、藩主となった直正に「済急封事(さいきゅうふうじ)」という意見書を提出し、この意見書が直正が大改革を行っていく上での精神的な支えとなりました。
佐賀藩武雄領主
江戸時代後期の佐賀藩武雄領主。1822(文政5)年、23歳の若さで佐賀藩の重役トップに抜擢され、14歳年下の藩主鍋島直正の成長過程に大きな影響を与えました。1827(文政10)年には、直正の姉・寵姫(ちょうひめ)と結婚し、義兄になりました。1830年代から、いち早く西洋式砲術や軍備をはじめとする蘭学(ヨーロッパの学術や文化・技術を学ぶ学問)を積極的に導入し、明治維新を主導した佐賀藩の近代化の礎を築きました。
早稲田大学の創設者
現在の佐賀市の水ヶ江生まれ。1844(弘化元)年に佐賀藩の学校「弘道館」に入学しました。1867(慶応3)年には、佐賀藩が長崎に設置した英学塾「蕃学稽古所(ばんがくけいこじょ)」(後に「致遠館」と改称)で、副島種臣(そえじま・たねおみ)らとアメリカ人の教師フルベッキに学ぶとともに、塾生の指導も行いました。明治政府では「大蔵卿」や「外務大臣」などを務め、鉄道の敷設、現在のお金の単位「円」の導入、太陽暦(グレゴリオ暦)の採用などを行いました。1898(明治31)年に佐賀県出身者初の総理大臣となり、1914(大正3)年にも2度目の総理大臣を務めました。東京専門学校(後の早稲田大学)を創立したことでも有名です。
「正義の人」として評された外務卿
現在の佐賀市鬼丸町生まれ。佐賀藩の思想家・教育者として活躍した枝吉神陽(えだよし・しんよう)の実弟。1834(天保5)年に佐賀藩の学校「弘道館」に入学し、1848(嘉永元)年の21歳の時に、成績優秀者が集められた首班(寮生のリーダー)を務めました。1867(慶応3)年には佐賀藩が長崎に作った英学塾「蕃学稽古所(ばんがくけいこじょ)」(後に「致遠館」と改称)で大隈重信(おおくま・しげのぶ)らと学び、塾生の指導も行いました。その後、明治政府では、日本初の国際裁判となった1872(明治5)年のマリア・ルス号事件で、外務卿として活躍し、「正義の人」として国際的な評価を得ました。また、佐賀出身で明治を代表する書家である中林梧竹(なかばやし・ごちく)と並び、その独創的な作風で、明治期を代表する書家としても知られています。
「義祭同盟」を結成。多くの人に影響を与えた
現在の佐賀市鬼丸町生まれ。佐賀藩の思想家・教育者。のちに外務卿や書家として活躍した副島種臣(そえじま・たねおみ)の実兄。佐賀藩の学校「弘道館」で才能が認められて、1844(弘化元)年には江戸幕府の学問所「昌平黌(しょうへいこう)」へ学びに行き、帰郷後は、弘道館で先生として生徒に学問を教えました。1850(嘉永3)年、弘道館の改革推進派を集めて「義祭同盟(ぎさいどうめい)」を結成し、尊王思想(天皇を大切にして国をよくしようとする思想)を説きました。実弟の副島種臣(そえじま・たねおみ)をはじめ、大隈重信(おおくま・しげのぶ)、江藤新平(えとう・しんぺい)、島義勇(しま・よしたけ)、大木喬任(おおき・たかとう)など、明治政府で活躍する佐賀出身の人材に影響を与えました。
北海道開拓の父
現在の佐賀市西田代生まれ。1830(天保元)年から佐賀藩の学校「弘道館」で学び、その後、江戸へ留学しました。1856(安政3)年、藩主鍋島直正の命令により蝦夷地(現在の北海道)、樺太を約2年にわたり探検調査しました。1869(明治2)年、明治政府から開拓判官(北海道の開拓を管理する役職)に命じられ、札幌に「五洲第一の都」(世界一の都)を造るという壮大な構想を描きました。今でも札幌では「北海道開拓の父」として人々から慕われています。
日本赤十字社の基礎を築いた
現在の佐賀市川副町早津江生まれ。1834(天保5)年から佐賀藩の学校「弘道館」で学び、その後、江戸、京都、大坂へ学びに行き、西洋の学問や医学など幅広い学識を得ました。1853(嘉永6)年に「佐賀藩精煉方(せいれんかた)」(理化学研究所)の主任となり、さらに日本初の実用蒸気船「凌風丸(りょうふうまる)」の建造に関わりました。1867(慶応3)年には、フランスのパリで開催された万国博覧会へ佐賀藩の代表として派遣されました。その際に「赤十字」の存在を知り、敵味方に関係なく負傷した兵士を平等に救護するという考え方に感動し、その後、西南戦争(西郷隆盛率いる鹿児島の士族と明治政府との争い)の際に、「博愛社(はくあいしゃ)」を創設し、敵・味方を問わずに傷ついた兵士を救護しました。博愛社はその後「日本赤十字社」に改称して、佐野は初代社長に就任し、日本赤十字社の基礎を築きました。
司法制度の基礎を築いた初代司法卿
現在の佐賀市鍋島町八戸生まれ。1845(弘化2)年に佐賀藩の学校「弘道館」に入学し、大木喬任(おおき・たかとう)らと共に学びました。1850(嘉永3)年、弘道館の先生だった枝吉神陽(えだよし・しんよう)が作った「義祭同盟(ぎさいどうめい)」に参加し、尊王思想(天皇を大切にして国をよくしようとする思想)を学びました。1868(明治元)年、大木と連名で「江戸」を「東京」と改め、新しい都とすることを提言しました。1872(明治5)年、明治政府で初代司法卿に就任すると、四民平等、人民主義を唱え、司法権の独立に力を尽くし、近代的な裁判制度導入や全国への裁判所設置など、日本の司法制度の基礎を築きました。このほか、三権分立に基づく国家制度の設計、民法・憲法といった法典の編纂(へんさん)、全ての国民に教育の機会を与える制度の提言など、現在にまでつながる日本の骨格を築きました。
近代教育の基礎を築いた初代文部卿
現在の佐賀市水ヶ江生まれ。1846(弘化3)年、佐賀藩の学校「弘道館」に入学し、江藤新平(えとう・しんぺい)らと共に学びました。1868(明治元)年、明治政府で江藤と連名で「江戸」を「東京」と改め、新しい都とすることを提言し、その後、東京府知事となりました。1871(明治4)年、初代文部卿となり、教育体制の整備に努め、全国に5万以上の小学校を設置し、身分の差別なく全ての子供が学校に通えるようにするなど、親友の江藤が提言した近代教育の礎を築きました。1881(明治14)年、2度目の司法卿に就任し、民法や刑法の制定にも力を尽くしました。
医療・化学・工学
近代医学の祖
現在の神埼市出身の、西洋医学を専門とする蘭方医(らんぽうい)。近代医学の祖。16歳で漢方医学を学び、23歳で佐賀の蘭方医・島本良順(しまもと・りょうじゅん)に、翌年長崎でシーボルトに学びました。1826(文政9)年、江戸に出て、1833(天保4)年に蘭学塾・象先堂(しょうせんどう)を開き、門下生を育てました。1843(天保14)年には、佐賀藩10代藩主・鍋島直正の侍医(医者)になり、天然痘(てんねんとう)という病気を防ぐために、種痘(しゅとう(天然痘の予防接種))の必要性を直正に進言しました。1849(嘉永2)年、直正は自分の子どもに種痘を受けさせて、江戸では玄朴が種痘を広めました。1858(安政5)年、玄朴たちは神田にお玉ヶ池種痘所という予防接種のための施設を作りました。この施設は、後に東京大学医学部に発展し、日本の近代医学の礎となりました。
日本にドイツ医学を導入
現在の佐賀市出身。日本にドイツ医学を導入した医学者。佐賀藩の学校「弘道館」に入学し、蘭学寮、医学寮(後の好生館)で学びました。1861(文久元)年、26歳で佐倉(現在の千葉県)の「順天堂塾(じゅんてんどうじゅく)」に入り、そこで蘭医学で優秀な成績を修め、その後長崎で蘭医・ボードインにも学びました。佐賀藩10代藩主・鍋島直正の侍医(医者)となり、1869(明治2)年には明治政府の「医学校取調御用掛」を命じられ、ドイツ医学を導入しました。1872(明治5)年には、第一大学区医学校(今の東京大学医学部)の初代校長になり、医学制度の基礎となる『医制略則(いせいりゃくそく)』を起草し、今日まで続く近代医学制度の基礎を築きました。
日本の電気工学の祖
現在の多久市出身。日本の電気工学の祖。多久の学問所「東原庠舎(とうげんしょうしゃ)」で学んだ後、1873(明治6)年に工部大学校(今の東京大学工学部)の第1期生として入学しました。世界初の電気工学専門の高等教育機関であった電信科で学び、トップの成績で卒業しました。1880(明治13)年には、イギリスのグラスゴー大学に国のお金で留学し、最優秀論文賞を受賞しました。帰国後は、工部大学校の教授を務めつつ、工部省の技術系の職員としても活躍しました。1888(明治21)年、自ら創設した電気学会では、テレビ電話や電気自動車など今の世界の予見したような演説を行うなど、すでに100年以上先の未来を見据えていました。
日本初の女性化学者
現在の佐賀市出身。化学分野での日本初の女性理学博士。1902(明治35)年、女子高等師範学校(今のお茶の水女子大学)理科に入学し、卒業した後も小学校教員として1年間の勤務を経て同校研究科で学び、助教授となりました。1913(大正2)年、29歳のときに東北帝国大学化学科に合格し、日本初の女子大学生の一人になりました。卒業研究で「紫根(しこん)」という植物の色素の仕組みを明らかにし、学会で発表しました。イギリスへの留学後、母校で教えながら、1923(大正13)年から理化学研究所で「紅花(べにばな)」という植物の色素の研究を行い、色素の仕組みを明らかにしました。1929(昭和4)年、45歳で理学博士となり、「紅(べに)の博士」として多くの人に知られるようになりました。
文化・教育・福祉
明治三筆の一人
現在の小城市出身の書道家。明治期を代表する書道家三人のうちの一人として知られ、近代書道の祖といわれています。小城藩の学校「興譲館(こうじょうかん)」に入り、多久の儒学者・草場佩川(くさば・はいせん)から学びました。幼いころから字を書くのがとても上手で、10代の頃に江戸に学びに行き、当時日本で有名な書家・山内香雪(やまうち・こうせつ)や市川米庵(いちかわ・べいあん)から書道を学びました。小城藩の「興譲館」で書道を教えたのち、45歳頃に仕事をやめて字を書くことに集中しました。1882(明治15)年、中国に渡り北京の潘存(はんそん)という先生に弟子入りして、とても芸術的で美しい書のスタイルを作り出し、明治時代の書道に新しい風を吹き込みました。1891(明治24)年、明治を代表する郷土の政治家で書家としても有名な副島種臣(そえじま・たねおみ)のすすめで、中国の書家・王羲之(おうぎし)の十七帖臨書(基本的な書のお手本)を明治天皇に贈りました。1898(明治31)年、72歳(数え年)の時には自分が書いた「鎮國之山」という字を刻んだ銅碑(銅で作られた記念碑)を富士山の頂上に建てました。
青年団の父
現在の鹿島市出身の社会教育家で「青年団の父」と呼ばれています。1909(明治42)年に東京帝国大学(今の東京大学)を卒業し、その後、内務省という国の機関での仕事を始めました。翌年、25歳の若さで静岡県安倍郡の郡長に就任しました。そこでは、学校に縁のなかった地方農村の青年たちに教育の場を与える活動に力を注ぎ、青年団を指導しました。1931(昭和6)年には東京都小金井の浴恩館(おんよくかん)に青年団講習所を開設し、1933(昭和8)年には親友で小説家としても有名な下村湖人(しもむら・こじん)を所長に迎え、ともに青年教育に取り組みました。また、正しく選挙をすることや、働く人と会社の人が助け合う社会づくりにも力を尽くしたことでも知られています。
『次郎物語』の著者
現在の神埼市出身の教育者、社会教育家、小説家。熊本にある旧制第五高等学校で田澤義鋪(たざわ・よしはる)と出会い、友人となりました。東京帝国大学(今の東京大学)を卒業した後、母校の旧制佐賀中学校で教師となり、その後、旧制鹿島中学校、唐津中学校、台湾の台中第一中学校、そして台北高校の校長を務めました。1933(昭和8)年には、親友の田澤義鋪が開設した青年団講習所の所長になり、一緒に青年教育に力を注ぎました。田澤義鋪の生涯を描いた『この人を見よ』や青少年の成長を描いた名作『次郎物語』などの本を残しています。
知的障がい児教育・福祉に尽力
現在の佐賀市出身の社会事業家。熱心なクリスチャン(キリスト教徒)で、立教女学校教頭の時に発生した「濃尾(のうび)大震災」で両親を失った少女たちを引き取り、1892(明治25)年、東京下谷に「孤女学院(こじょがくいん)」を開設しました。翌年には滝野川村に院舎を建設し、本格的に運営を始めました。引き取った少女たちの中に知的障がいのある子どもがいたことをきっかけに、その教育の必要性を深く感じ、教育法などを学ぶためにアメリカに行きました。帰国後、同院を「滝乃川学園(たきのがわがくえん)」に改め、日本で初めて知的障がいのある子どものための教育を本格的に始めました。妻の筆子とともに知的障がいのある子どもの教育・福祉に生涯を捧げました。
知的障がい児教育・福祉に尽力
現在の長崎県大村市出身の近代女子教育者。石井亮一(いしい・りょういち)と共に日本で初めて知的障がいのある子どもの教育・福祉に努めました。1880(明治13)年、19歳のとき、明治天皇の皇后の命令でフランスに留学し、帰国後、津田塾大学を創立する津田梅子(つだ・うめこ)とともに華族女学校の教師となり、女子教育に力を注ぎました。同郷の小鹿島果(おがしま・はたす)と結婚しましたが、死別します。その後、知的障がいがある娘を滝乃川学園に預けた縁で石井亮一と再婚し、亮一を献身的に支えながら知的障がいのある子どもの保護に努め、自立できるように力を尽くしました。
建築・経済
日本銀行本店、東京駅を設計
現在の唐津市出身の建築家、教育者。唐津藩の英学校「耐恒寮(たいこうりょう)」で後に日本銀行総裁や総理大臣を務める高橋是清(たかはし・これきよ)に学んだ後、1873(明治6)年に工部大学校(今の東京大学工学部)に入学しました。同じ唐津出身の曾禰達蔵(そね・たつぞう)らと共にイギリス人建築家ジョサイア・コンドルから西洋建築を学んだ日本人初の建築家の一人として知られています。イギリス留学を経て、1884(明治17)年には工部大学校の教授に就任し、多くの建築家を育てました。また、造家学会(現在の日本建築学会)を創設するなど、建築界の発展に力を尽くしました。銀行やホテルなど200余りの建物設計に携わり、国の重要文化財である日本銀行本店、東京駅などの代表作を残しています。武雄温泉の楼門も辰野の設計で、同じく国の重要文化財です。
慶応大学図書館や
丸の内のオフィスビル街を建築
建築家。唐津藩の江戸藩邸に生まれる。明治維新後に唐津藩の英学校「耐恒寮(たいこうりょう)」に入り、後に日本銀行総裁や総理大臣を務める高橋是清(たかはし・これきよ)に学びました。その後、工部大学校(今の東京大学工学部)に入学しました。同じ唐津出身の辰野金吾(たつの・きんご)らと共にイギリス人建築家ジョサイア・コンドルから西洋建築を学んだ日本人初の建築家の一人として知られています。卒業後は、工部大学校の助教授や海軍省を経て、1890(明治23)年に三菱社に入社しました。その後、東京丸の内にある日本初の赤レンガ造りの洋風オフィスビル街の建築を手掛けました。1908(明治41)年には「曾禰中條建築事務所」を開設しました。国の重要文化財である慶應義塾創立五十年記念図書館(今の慶應義塾図書館旧館)や世界文化遺産「明治日本の産業革命遺産」の構成資産の一つである長崎造船所の「占勝閣」(所長の邸宅)などの代表作を残しています。
森永製菓の創業者
エンゼルマークでおなじみの森永製菓の創業者。現在の伊万里市出身。1888(明治21)年にアメリカに行き、12年かけて西洋菓子の作り方を学びました。1899(明治32)年に帰国し、現在の東京都港区虎ノ門付近に森永西洋菓子製造所(森永製菓の前身)を開設し、まだ和菓子が主流だった当時の日本で西洋菓子の普及に力を注ぎました。1914(大正3)年、49歳の時に紙箱入りの「ポケット用ミルクキャラメル」を発売すると大人気になりました。その後、日本初の一貫製造によるミルクチョコレートをはじめ、飲用ココア、マリービスケットなど数々のロングセラー商品も生み出しました。
江崎グリコの創業者
江崎グリコの創業者。佐賀市出身。37歳の時に有明海につながる早津江川河畔で漁師が牡蠣の煮汁を捨てる様子を見て、かつて読んだ薬業新聞の「牡蠣に栄養素グリコーゲンが大量に含まれている」という記事を思い出し、グリコーゲンを使用した栄養菓子の開発に着手。1921(大正10)年に佐賀から大阪へ拠点を移し、合名会社江崎商店を設立。この翌年、40歳の時に栄養菓子グリコを三越で発売。グリコの顔として知られるゴールインマークは、八坂神社(佐賀市)の境内(けいだい)でかけっこしている子供たちの姿からヒントを得て考案された。
久光製薬の礎を築いた創業3代目
久光兄弟合名会社(後の久光製薬)初代社長。現在の鳥栖市出身。旧姓・久光三郎(ひさみつ・さぶろう)。祖父の久光仁平(ひさみつ・にへい)が1847(弘化4)年に創業した製薬・売薬の家業を継ぎ、1903(明治36)年、27歳の時に佐賀県三養基郡田代村(現在の鳥栖市)に設立された久光兄弟合名会社の社長に就任しました。この会社では「朝日万金膏(まんきんこう)」という痛みを和らげる貼り薬や「快復丸(かいふくがん)」というお腹の薬を販売し、日本だけでなく海外でも販売しました。1934(昭和9)年、58歳の時には、のちに国民的な貼り薬となる「サロンパス」を発売し、久光製薬の礎を築きました。
リコー三愛グループの創業者
リコー三愛グループの創業者。現在のみやき町出身。29歳の時、理化学研究所が開発した感光紙(かんこうし)という特殊な紙を売る仕事を始めました。その仕事で大きな成果を出し、理化学興業株式会社の感光紙部長に抜擢され、36歳の時に理研感光紙株式会社(後のリコー)をつくりました。1950(昭和25)年、50歳の時に二眼レフカメラ「リコーフレックス3」を発売し、日本国内でカメラブームを起こしました。1963(昭和38)年、市村記念体育館(当時は「佐賀県体育館」)を佐賀県に寄贈しました。この体育館は、2018(平成30)年から2019(平成31)年にかけて開かれた「肥前さが幕末維新博覧会」で、メインパビリオン「幕末維新記念館」となりました。
偉人モニュメントマップ
佐賀駅南口から県庁にかけて設置されている、偉人モニュメントをマップで紹介しています。
佐賀の歴史をもっと知りたい方へ
佐賀の歴史をもっと知ることができる歴史館や博物館などの施設を紹介しています。
開館日については各施設のHPをご確認ください。
佐賀県立佐賀城本丸歴史館
藩主が政治を行い、生活を行っていた佐賀城の本丸御殿を復元。幕末維新期の佐賀について展示しています。
大隈重信記念館
大隈重信の歴史資料や功績を展示しています。また敷地内には大隈重信の生家があります。
徴古館
佐賀藩主・侯爵鍋島家伝来の美術工芸品や歴史資料などを、幅広く公開しています。
佐賀県立博物館
佐賀県の自然・歴史・文化についての資料などを展示しています。
佐賀県立九州陶磁文化館
肥前の陶磁器をはじめ、九州各地の陶磁器約3万点を収集・展示するやきもの専門のミュージアムです。
佐賀市歴史民俗館
旧古賀銀行、旧古賀家、旧牛島家、旧三省銀行、旧福田家、旧森永家、旧久富家の7館を整備・公開しています。
佐野常民と
三重津海軍所跡の歴史館
三重津海軍所で行われていたことや、佐野常民の生涯について展示しています。
さが水ものがたり館
(石井樋公園)
佐賀城下の生活・農業用水を支えた石井樋や成富兵庫茂安の治水・利水の歴史を展示しています。